【セミナー採録】梶原昭雄さん『迷える名工のジュエリー打ち明け話』(前編)
2020年3月、現代の名工・梶原昭雄さんが旅立たれました。
1960年、御木本真珠店に入社されて以来
戦後日本のジュエリーとともに歩み続けた
仕事への気概と誇りにあふれるジュエリー職人でらっしゃいました。
ジュエリー研究会ムスブセミナー&交流会では
2012年9月8日
「迷える名工の打ち明け話」
をご講演いただきました。
セミナー終了後の交流会で、お酒が大好きな梶原さんが顔を赤らめながら
若手クリエイターさんたちの質問に丁寧に答えていらしゃったことが
ほんの少し前のことのように思い返されます。
梶原さんへの哀悼と感謝の気持ちを込めて、
当日のセミナーの採録をお届けします。
梶原さんの盟友でいらっしゃる
ジュエリー工房フィーゴの坂元亞郎さんにも
大変お世話になりましたことをお礼申し上げます。
(講師プロフィール)
1960年(株)御木本真珠店入社。細工から仕上げまで一貫して製作する
高度な原型製作技能は、高い評価を得ている。
その技術は、昭和皇后陛下のブローチなどの正装用ジュエリーに活かされてきた。
また東京貴金属技能士会での講師を務め、
ものづくりの楽しさを教えるなど技術継承への貢献も高い。
フィーゴ・坂元亞郎氏に続き、2006年に「現代の名工」に選ばれ、
2010年には「黄綬褒章受章」を受章。
現在はジュエリー工房フィーゴの副代表を務める。2020年逝去。
迷える名工のジュエリー打ち明け話。
まず最初にこの道に入った当時のことをお話ししましょう。
わたしは御木本に入ったのが昭和35年、1960年。
この年はまだまだ安定した時代ではなくて、安保問題、樺さん(注:樺美智子 安保闘争で死亡した学生運動家)が亡くなったり、ベトナム戦争がありましてね。
岸内閣が倒れたあとに、池田内閣が所得倍増計画というのを立てまして、働いてる人たちに希望を持たせてくれた時代でもありました。
就職難の時代で、就職できたらいいな、働かないと、という時代。経済的な基盤が今の時代に比べるとまだまだ低いですから。
むしろ働いて、家族を食べさせていかないといけない。誰もが価値観が共通していた時代だと思いますね。
高校時代、いまでいうハローワーク、当時は職安といいましたけど、
募集の要項を見て何個か受けたんですけど、一番給料が安いところが御木本だったんですね(笑)。
ふつうですと面接とか筆記試験とかあるんですが、当時の御木本は面接だけでオシマイ。筆記試験はなしで、明日から来られるかと。まだ学校卒業する前で、2月の中頃でした。
入ることに決めましたが、さて、どんな仕事をするのか分からない(笑)。のんびりしていたんですね、わたしは。
ジュエリーを作っている会社だっていうことも全然知らなくて。
でも、あとから同期の仲間に聞いたら、彼も「わからなかった」って。そんな、今じゃ考えられないような時代ですけどね。
入ったときは15人くらいだったか。ジュエリーはまだ贅沢品って言われる時代でね。
その後、(ジュエリーが)必需品といわれる時代のそうとう前ですから、なかなか、景気のいい会社じゃないんじゃないかなと思っていたんですけど、
ベトナム戦争が1961年に始まってから、ベトナム特需といいますか、兵隊さんたちのお土産の用途の量が増えてきまして。
(わたしが)どこの部署でもいいといいましたら、「仕上げ」になりました。ほとんどは磨きですね。
実際には仕上げは磨き以外も含めるんですが、当時のわたしは磨きだけ。御木本時代、仕上げの期間がいちばん長かった。
仕上げは、全部やった後のいわばお化粧ですから、やっていて面白いには面白いんですね。非常にきれいになっていくという世界。
小さい頃からものをつくるのが好きだったので、バフ研磨していて、自分の手の中でものが光っていくのがすごくビックリしました。初めてのビックリです。
わたしは町工場のセガレで、景気の悪い時代に就職して御木本に入ったんですが、
豊かな会社だからなのか、みんなあんまり仕事しない。のんびりやっているように見えましたね。
町工場なんて苦労してきましたから、子供のころから家の仕事を手伝って、もちろん無償ですよね。
そうやってきたもんだから、入った当時は、会社に行っているというより遊びに行っているような感じがありましたけれども。
「自分なりのやり方を見つけなくては」
ま、例によって先輩たちからいろいろな仕事を教わって。最初は教わるしかありませんでしたからね。
それからだんだん、これでいいのかという問題点、こんな磨き方でいいんだろうかというのが色々出てきまして、
自分なりのやり方を見つけていかなくてはといった気持ちが出てきまして。当時の研磨の材料。時計の(外)側なんかをやっている人たちは、ボール紙の板バフのようなものを使ってきたようですけど、
御木本は真珠製品が多いですから、曲線を使ったジュエリーが非常に多いんですね。ですから板バフのようなものはなかなか使えなくて。
とくに指輪のひねり腕の側面ですとか、ある程度厚みがある材料、材料自身に曲面を持たせるようなつくりでなくてはいけないので。
その当時のミキモトはネックレスがいちばん売れていた時代で、クラスプ(注:ペンダントやネックレスの留め金具)、銀のクラスプが(職場に)いっぱいある。
一日に100個くらい磨くと、それが1日の仕事みたいな。
なにしろクラスプの磨き、当時は布バフでただ磨くだけなんですね。そうすると、刻印を打っているところ、
へこんだところの先端というのは筋ひいて、どんどんダレてくるんですね。
布バフですとだいたいが強制した磨きじゃなくて、光沢出す部分には向いているですけど、強制的にまっ平に磨きたいとか、きれいな曲面で連続した光沢を出したいとかには、ほとんど向いていない材料です。
今度はそういうことをやっていかなくては、と、入りまして2年目くらいに少し気が付きました。
ところが材料がない。リューターやバフ(注:ジュエリーの磨きなどで使う小型のモーター式機械)というのがあることは我々は知っていましたが、当時はまだ手に入りませんでした。
何かないかなと思いましたら、機械課という部署がありましてね、動力、大きなモーターが1個、ずーっとベルトが回っているんですね。
これを丸く切ってやってみて、答えが出たなと思いました。
クラスプでもそれをやってみたら、しないよりは少しまともな製品が出来ていく。
当時はあまり評価されるような部分ではないけれども、
技術者というのは、小さなところでもきちんと目を向けてやっていくと、何かひとつの方向が出てくるような気がするんです。
銀の酸化膜を合理的に取る方法
それからは、さっき言ったベトナムの特需関係で、当時は景気は悪かったんですけど、量産品が猛烈に増えてきたんですね。
最後の仕上げだけは、責任もって社内でやろうと、外注化しないで15人くらいでやっていたんですが、どうしても目一杯になってきまして。
仕上げのほうも今は機械化が進んでいるところも多いと思いますが、バレル研磨(注:ジュエリーの表面を磨くための方法の一種。研磨材などを入れた回転する容器の中にジュエリーを入れる)ですよ。
下準備としてはバレル研磨は非常に合理的と思っています。手間がかかりませんし。
でも、本当にこれでいいのだろうかということを突き詰めて考えていきますと、
銀の製品なんかですと酸化膜がついていますので、酸化膜はどうやって取ったらいいのだろうとか。
酸化膜を取った後は、結果的にスチールボール(注:バレル研磨で使う、球形の研磨材)の小さいやつで、タル(注:バレル研磨するための容器)の中で一緒に回すと非常にきれいなことになりまして。
酸化膜がついたままでスチールボールをかけますと、酸化膜が硬化して、いくらバフをかけてもかからない。酸化膜自身が固いものですから。
「電解研磨」という、これはメッキと逆で、青酸カリの液で表面を電気分解させて溶出させる技術なんですが、
金製品にはやっていたので、銀製品にもやってみようと。品物がもう大量に来ますから。
電解液の青酸カリの濃度ですね、自分たちのカンで入れていくんですが、温度と濃度と電流の密度と。
上手く見ていかないとガチガチに銀の肌って荒れちゃうんですね。何かしなくちゃいけないと、今までやり方をちょっとはみだしてやっていくわけですが。
試行錯誤ですね。これで良かったのか悪かったのか。失敗することもあるんですけど、ちゃんと見てやっていくと、方向性として成功する方向、自分たちで出来る方向というのが何か見えてくるような気がして。
今までの金製品の電解研磨もそうでしたが、電解研磨が一般化していなかった時代ですね。
たとえば一点の作品で金製品もけっこう多かったんですが、酸化膜でほとんど色が出ていませんでしたので、それを完全に電解研磨で表面を溶出する。
青酸カリって薬品は常温でも金と銀と銅を本当に微量ですが溶かす性質をもっているんですね。
それを温度を上げて電気を流していわば加速する、うまくいくと研磨ができるんですね。
密度の高いプレス商品だと電解研磨でピカピカになっちゃう。ただヘリが出ますけれども回収率が非常にいいものですから、タンクの中にぜんぶ沈殿しますんで。
そういったところでは非常に便利で、思いっきり濃度を上げて温度を上げて、
電流をうんと流して、引っ掛けにぶら下げてタンクの中で振るんですが、
持ってる手のところまで発熱してくるくらい。何しろもう、量産に合うか分からないけれどもやってみるしかない。
志しがあれば何かひとつ答えが出るようで、今までに比べるとずいぶん仕上げが楽になりました。
仕上げって、人海戦術ですから大変なんですね。今も(会場に)仕上げをやっている方がいると思いますけど、なかなかたいへんな仕事で。
量産品の場合はなるべく機械的に合理的にやれる方法はないかなと考えたんです。
他には、銀製品はスチールボールでのバニシング(注:バニシング仕上げ。表面の磨き方の一種で表面が滑らかに、しかも硬くなる)をやってみました。
完全に連続する光沢は出ないんですが、それでも、効率的には10%くらい上がったんではないかと。
会社の命令されたわけではないですが、そんなことを考えてやっていました。
それからもっと量産ができないかということで、今はもう一般化してますが、光沢ニッケルメッキ、ロジウムメッキの併用もやりましたね。
電解研磨を学び、御木本の香港工場へ
会社から化学の大学にちょっと行ってくれと言われて、行きました。化学のことも面白くて、いろんなやり方をしてきました。
電解研磨は、細工した後に硫酸に入れますが、金に青い色が出ますね。本当はあの青い色を活かしたほうがいいと思うんですが、量産品の場合はきれいに全部やってくれっていうんで、なかなか技術も難しくて。
青酸カリを扱ますから、扱う免許もなくてはいけないし。会社みたいにロッカーで仕舞えれとばいいんですが、小さいところでは難しいかなと。
大学を卒業すると同時に、香港で現地の人に電解研磨の技術指導したこともあります。
そのときは御木本の香港工場があって、指導に行ったらすごく喜ばれましたね。
作り方を見ていますと、日本と同じ原型でもどっか違うんですね。ちょっとだらしがないような印象だったのを覚えています。
充実していたクラブ活動
これは仕事の話と別ですけど、若いときにどんな環境で仕事をしたら良かったかなと思うと、御木本はたしかに給料は安かったけれども、クラブ活動というのがありまして。やっぱりなかなか文化的な意思の強い会社でしたからね。
当時7つか8つ・・9クラブですかね、ありまして。ぜんぶ(運営費を)会社で出してくれました。非常に文化的な会社だったことは事実ですね。
美術部、書道部、写真部、コーラス部、囲碁将棋、ワンゲル、野球、卓球……僕らもまだ青春時代ですからね、野球部、卓球部、書道部、コーラス部、ワンゲル部。6つくらいやりました。本当に謳歌していましたね。
美術の講習会。外部から先生を呼んでやりまして、芸大の先生が多かった。宮田宏平先生ですとか、七宝協会の今の会長をやっておられる田中輝和先生ですとか。何人か来てくれました。
いいものをつくっていこうという、共有部分みたいなものがありましたね。そんなことをずいぶんやってきた思い出があります。
一番若いときに自信をもってやっていけるのか、いい指導者がいて、いい環境があって、モチベーションが上がっていける環境があれば一番いいと思いますが、今はこんなご時世で厳しい時代。難しいことばかりです。自分で自分のモチベーションを上げていかなくてはいけない、人に言われたからじゃなくて。そんな時代になっていると思うんですね。
さっき言った試行錯誤の問題ですが、どんな試行錯誤をすればいいのか。
デザインもそうですし、ものをつくっている時もそうですし。僕はデザインがはっきり言って苦手なんですが、いつか自分でデザインしてやろうという気持ちはあった。
テーマを決めてやるんですが、こっち描いたら失敗、またこっちで失敗。ひとつの絵を描くのに1週間くらいかかってしまうこともあるんですね。
つくりの時にも、当時はワックスでやることは少なくて地金でやることが多かったから、きちんとした表現が出来ているだろうか、完成度はどうだろうか、確証はどうだろうかとか考えてやっているもんですから。
ちょっとこのパーツは大きすぎる、でもつくりすぎると気にし過ぎて、今度はこっちが大きくなってしまって、それに凝りて、また作り直すという。
だいたい3回で方向性がはっきりして、これでいいんだなというやり方ですよね、それを一つ一つ自分で把握してやっていくのが重要かなことかと思う。
1000年以上も長い間恥かくつもりか――
細工の時代
話が後先になってしまいますが、「細工」の部署に入った時に、駆け出しでやっている時に、だめだよこんなもん、潰すって何回か潰されたことがありました。金床の上でトンカチでね、潰される。
ちょっと待ってくださいと。潰したら結局どういうふうにしていいか、形がなくなってしまうわけですから。ここへ置いて見ながら次のものをやっていったら、もっと早く習得できるんじゃないかと思いました。
大学行っていたときに化学の実験でやった試行錯誤の方法を踏襲したいというか。やっぱりなるべく早く(技術を)習得しようという気持ちだったから。
潰した先輩には(これはダメだという)確証があったんだと思うんです。だから、「こんなの潰せ」ってね。
でも、先輩たちは一人前の技術があるからいいですが、わたしたちは駆け出しですからね。失敗なら失敗の理由が分かっていかなくちゃいけないわけで。
「細工」には逸品(をつくる)職人で入りました。御木本で最高に権威のある仕事です。
でも、僕は「仕上げ」から何も細工を知らない状態でいきなり入ったので、けっこう背負ってのかもしれない。
入った細工の部署はみんな自分より年下ですが、細工の仕事では先輩なのでね。でも、何でもかんでも謙虚に聞くばかりではなく、どうやったら上手くなれるかということも考えていかないと。
自分の仕事を見つめて、よく観察して。
観察できない仕事もあります。たとえばキャスト、鋳造とかね、中でどんな反応が起きているかは分かりませんけれども、細工とか仕上げはぜんぶ自分の手の中で見られるわけですから。
芸大の宮田宏平先生が「仕事っていうのは、人から盗むのもいいけれども、自分の仕事が教えてくれるんだ」と言っていました。
やっぱり自分の仕事をよーく見ていると、何か違うということが分かってくるのではないかと。
そういう捉え方が自分でが出来るようにならないといけない。そうしたら何とか上手くいくだろうと。
本当は修練した人のほうが余計に感じると思う。ようするに、自分がつくったものに自分が教わっていると考えているんですね。
私たちの時代は「盗め」って言われたんです。でも、もっとモチベーションの高い生き方をすると、自分の中から、見えるという。そういう考え方が必要じゃないかと思うんですね。
宮大工さんからの言葉でね、樹木だって1000年、切ってから200年くらいから強くなる。梁やなんかって1000年ももつ。
ということは、木ですら1000年ももつのに、自分たちがつくっているものは腐らない。そんな1000年以上も長い間恥かくつもりなのかと。潰した先輩からは、そんなこと言われましてね。
やっぱりそれだけに、貴金属を扱っているというのは、そういうことなのだから。貴金属なんていうものは、金なんて、磨いているだけでなんだってきれいに見えちゃうんだよと。
でも、内容ですよね。わたしたちがやらなくてはいけないのは。最初は全然そういうことが分からないでやっていましたが、心してかかってやっていかないとね、自分に対して恥をかくぞと。
皇后陛下のブローチ、浅丘ルリ子さんのネックレス
何でも売れればいいという時代もありましたけれども、そういう時代にあんまり仕事はしたくなかったですね。
精一杯自分でやった仕事の足跡っていうか、解釈してやっていかないとな、と思ってたよね。
やった結果っていうのは、他人が評価する訳で、ほんとは自分じゃ評価できない。
細工をやり出して3か月くらいして、1級技能検定をとったんですが、そのあといきなり(レベルが)高いものをつくることになって。
会社がそれだけ期待してくれたというのは嬉しかったです。
細工には1年半くらいしかいなかったんですが、皇后陛下のブローチもつくりましたね。
フォーマルなブローチではなくて、両陛下が初めてアメリカに行った帰りに、ハワイで着けてくれたというね、嬉しかったですね。
テレビですけどね、(映ったところを)写真に撮ってあるんです。
社長から(どなたのものか)全然知らされないでやっていまして(後から)じつは皇后陛下のだよって言われまして、構えました。
あとは、浅丘ルリ子さんのネックレスもつくりました。
首のサイズが分からないとつくれませんって言ったら、首周りが28センチですって。そんな(細い)人いませんよね。
まず仮でつくって、アポイントメントが中々とれなかったんですが、スタジオまで行って、会うには会えたんですけど、実際に合うかどうか当ててみなくちゃ分からない。
でも、そんなこと絶対にさせてくれません。おつきの人が代わりにやってくれました。
首の形に独特な曲線がある、ドックネックレスみたいな硬いデザインだったので(サイズが)合わないと使えなくなってしまう。でも、ぴったりだったのは嬉しかったですね。
もっとカジュアルで、世間にはない、うんといいものを
御木本には、いままでのキャリアの3分の1くらいしかいませんでしたが、中身の濃い時代でしたね。技術は駆け出しでしたが、そんな楽しい思いがいっぱいできて。
辞めた理由というのは、なるべく自分が矢面に立って生きていける、恰好いいようなんですが。御木本のものは高級品というような、うちのカミさんたちがやっぱり買えるものではないんですね。
もっとカジュアルで、世間にないうんといいものをつくっていったほうがいいんじゃないかということで辞めたんですけど、また不況になって、食うか食われるかのような時代になってしまって。
でもやっぱり、最初の気持ちというのは変えるわけにいかないので。
御木本で一緒に働いていた仲間と一緒に作った会社が、30年くらいやって潰れたんですが、その時は1年5か月くらい給料もらってませんでした。
それでも好きですからこの仕事、好きだからやっていくということで。好きな仕事だから、多少大変でもしょうがないなと。
ジュエリーづくりはどういうところが好きなのか、と聞かれたら、ひとことで言えば、ものをつくることが好きだった。
単純ですけど、そこに苦しければ苦しいほど自分の感性なりを一生懸命探し出してつくるというような感じですね。
いい時代には頑張ることもできるんですが、苦しい時はもっと自分を振りかざしてつくるんじゃないかなというのがありましたね。
一生懸命つくってもなかなか市場に上がらないというのもありましたけど、貧乏しながらでもやってこれたというのがよかったなと思います。
自分の選択もありましたけれども、やらなくちゃいけないことは、自分のモチベーションの中で決めちゃっているんですね。
これしかないんだという。そこまで来たんだから、ぜったいこれで頑張るんだということしか考えてない。
給料がないときは本当に苦労しましたけれども、でも、やってきたら何とかなったなーという気はします。
今は仕事はあるにはあるんですが、一所懸命やるほどあんまり儲けがないというのが現状ですけれども、やっぱりそれでも、現代の名工、卓越技能賞を受けた時のタイトルで、期待をかけてくれる人が直接頼んできてくれることもあります。
僕に直接ではなくて、業者を通してくるんですが、その時はもう、採算度外視しても何かもう喜んでもらわなくちゃいけないなと。昔気質な職人なんで。
つくったものを喜んでくれる時、笑顔を見た時がもうね、それじゃあ儲からないんですって会社からはいわれるんだけれども。
今、一番感じるのは、宮田先生の「仕事が教えてくれること」と「お客さんにぜったい喜んでもらうんだ」ということ。
特定のお客さんと、不特定のお客さんがいますんで、不特定のお客さんを相手にしながら自分の感性を合わせていくのはなかなか難しいことですが、やっぱりいろいろ長く携わってくると、自分の仕事の中から少しずつでも生まれてくるんだと思いますね。
この間、彫刻家の本を読んでいましたら、「やっぱり人が喜んでくれないといけないんだ」と書いてありましてね。もっと彫刻家は難しいことを考えて生きているんじゃないかなと思ったんでびっくりしたんだけれども。これからも一生懸命やって、喜んでもらえればな、そういう商品をつくっていきたいなと思います。
(後編に続く)
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