セミナーレポート 梶原昭雄さん『迷える名工のジュエリー打ち明け話』(前編)

迷える名工のジュエリー打ち明け話。

まず最初にこの道に入った当時のことをお話ししましょう。
わたしは御木本に入ったのが昭和35年、1960年。
この年はまだまだ安定した時代ではなくて、安保問題、樺さん(注:樺美智子 安保闘争で死亡した学生運動家)が亡くなったり、ベトナム戦争がありましてね。
岸内閣が倒れたあとに、池田内閣が所得倍増計画というのを立てまして、働いてる人たちに希望を持たせてくれた時代でもありました。
就職難の時代で、就職できたらいいな、働かないと、という時代。経済的な基盤が今の時代に比べるとまだまだ低いですから。
むしろ働いて、家族を食べさせていかないといけない。誰もが価値観が共通していた時代だと思いますね。

高校時代、いまでいうハローワーク、当時は職安といいましたけど、
募集の要項を見て何個か受けたんですけど、一番給料が安いところが御木本だったんですね(笑)。
ふつうですと面接とか筆記試験とかあるんですが、当時の御木本は面接だけでオシマイ。筆記試験はなしで、明日から来られるかと。まだ学校卒業する前で、2月の中頃でした。

入ることに決めましたが、さて、どんな仕事をするのか分からない(笑)。のんびりしていたんですね、わたしは。
ジュエリーを作っている会社だっていうことも全然知らなくて。
でも、あとから同期の仲間に聞いたら、彼も「わからなかった」って。そんな、今じゃ考えられないような時代ですけどね。
入ったときは15人くらいだったか。ジュエリーはまだ贅沢品って言われる時代でね。
その後、(ジュエリーが)必需品といわれる時代のそうとう前ですから、なかなか、景気のいい会社じゃないんじゃないかなと思っていたんですけど、
ベトナム戦争が1961年に始まってから、ベトナム特需といいますか、兵隊さんたちのお土産の用途の量が増えてきまして。

(わたしが)どこの部署でもいいといいましたら、「仕上げ」になりました。ほとんどは磨きですね。
実際には仕上げは磨き以外も含めるんですが、当時のわたしは磨きだけ。御木本時代、仕上げの期間がいちばん長かった。
仕上げは、全部やった後のいわばお化粧ですから、やっていて面白いには面白いんですね。非常にきれいになっていくという世界。
小さい頃からものをつくるのが好きだったので、バフ研磨していて、自分の手の中でものが光っていくのがすごくビックリしました。初めてのビックリです。

わたしは町工場のセガレで、景気の悪い時代に就職して御木本に入ったんですが、
豊かな会社だからなのか、みんなあんまり仕事しない。のんびりやっているように見えましたね。
町工場なんて苦労してきましたから、子供のころから家の仕事を手伝って、もちろん無償ですよね。
そうやってきたもんだから、入った当時は、会社に行っているというより遊びに行っているような感じがありましたけれども。

「自分なりのやり方を見つけなくては」

ま、例によって先輩たちからいろいろな仕事を教わって。最初は教わるしかありませんでしたからね。
それからだんだん、これでいいのかという問題点、こんな磨き方でいいんだろうかというのが色々出てきまして、
自分なりのやり方を見つけていかなくてはといった気持ちが出てきまして。当時の研磨の材料。時計の(外)側なんかをやっている人たちは、ボール紙の板バフのようなものを使ってきたようですけど、
御木本は真珠製品が多いですから、曲線を使ったジュエリーが非常に多いんですね。ですから板バフのようなものはなかなか使えなくて。
とくに指輪のひねり腕の側面ですとか、ある程度厚みがある材料、材料自身に曲面を持たせるようなつくりでなくてはいけないので。

その当時のミキモトはネックレスがいちばん売れていた時代で、クラスプ(注:ペンダントやネックレスの留め金具)、銀のクラスプが(職場に)いっぱいある。
一日に100個くらい磨くと、それが1日の仕事みたいな。
なにしろクラスプの磨き、当時は布バフでただ磨くだけなんですね。そうすると、刻印を打っているところ、
へこんだところの先端というのは筋ひいて、どんどんダレてくるんですね。

布バフですとだいたいが強制した磨きじゃなくて、光沢出す部分には向いているですけど、強制的にまっ平に磨きたいとか、きれいな曲面で連続した光沢を出したいとかには、ほとんど向いていない材料です。
今度はそういうことをやっていかなくては、と、入りまして2年目くらいに少し気が付きました。

ところが材料がない。リューターやバフ(注:ジュエリーの磨きなどで使う小型のモーター式機械)というのがあることは我々は知っていましたが、当時はまだ手に入りませんでした。
何かないかなと思いましたら、機械課という部署がありましてね、動力、大きなモーターが1個、ずーっとベルトが回っているんですね。

これを丸く切ってやってみて、答えが出たなと思いました。
クラスプでもそれをやってみたら、しないよりは少しまともな製品が出来ていく。
当時はあまり評価されるような部分ではないけれども、
技術者というのは、小さなところでもきちんと目を向けてやっていくと、何かひとつの方向が出てくるような気がするんです。

銀の酸化膜を合理的に取る方法

それからは、さっき言ったベトナムの特需関係で、当時は景気は悪かったんですけど、量産品が猛烈に増えてきたんですね。
最後の仕上げだけは、責任もって社内でやろうと、外注化しないで15人くらいでやっていたんですが、どうしても目一杯になってきまして。
仕上げのほうも今は機械化が進んでいるところも多いと思いますが、バレル研磨(注:ジュエリーの表面を磨くための方法の一種。研磨材などを入れた回転する容器の中にジュエリーを入れる)ですよ。
下準備としてはバレル研磨は非常に合理的と思っています。手間がかかりませんし。

でも、本当にこれでいいのだろうかということを突き詰めて考えていきますと、
銀の製品なんかですと酸化膜がついていますので、酸化膜はどうやって取ったらいいのだろうとか。
酸化膜を取った後は、結果的にスチールボール(注:バレル研磨で使う、球形の研磨材)の小さいやつで、タル(注:バレル研磨するための容器)の中で一緒に回すと非常にきれいなことになりまして。
酸化膜がついたままでスチールボールをかけますと、酸化膜が硬化して、いくらバフをかけてもかからない。酸化膜自身が固いものですから。

「電解研磨」という、これはメッキと逆で、青酸カリの液で表面を電気分解させて溶出させる技術なんですが、
金製品にはやっていたので、銀製品にもやってみようと。品物がもう大量に来ますから。
電解液の青酸カリの濃度ですね、自分たちのカンで入れていくんですが、温度と濃度と電流の密度と。
上手く見ていかないとガチガチに銀の肌って荒れちゃうんですね。何かしなくちゃいけないと、今までやり方をちょっとはみだしてやっていくわけですが。
試行錯誤ですね。これで良かったのか悪かったのか。失敗することもあるんですけど、ちゃんと見てやっていくと、方向性として成功する方向、自分たちで出来る方向というのが何か見えてくるような気がして。

今までの金製品の電解研磨もそうでしたが、電解研磨が一般化していなかった時代ですね。
たとえば一点の作品で金製品もけっこう多かったんですが、酸化膜でほとんど色が出ていませんでしたので、それを完全に電解研磨で表面を溶出する。
青酸カリって薬品は常温でも金と銀と銅を本当に微量ですが溶かす性質をもっているんですね。
それを温度を上げて電気を流していわば加速する、うまくいくと研磨ができるんですね。
密度の高いプレス商品だと電解研磨でピカピカになっちゃう。ただヘリが出ますけれども回収率が非常にいいものですから、タンクの中にぜんぶ沈殿しますんで。

そういったところでは非常に便利で、思いっきり濃度を上げて温度を上げて、
電流をうんと流して、引っ掛けにぶら下げてタンクの中で振るんですが、
持ってる手のところまで発熱してくるくらい。何しろもう、量産に合うか分からないけれどもやってみるしかない。
志しがあれば何かひとつ答えが出るようで、今までに比べるとずいぶん仕上げが楽になりました。
仕上げって、人海戦術ですから大変なんですね。今も(会場に)仕上げをやっている方がいると思いますけど、なかなかたいへんな仕事で。
量産品の場合はなるべく機械的に合理的にやれる方法はないかなと考えたんです。

他には、銀製品はスチールボールでのバニシング(注:バニシング仕上げ。表面の磨き方の一種で表面が滑らかに、しかも硬くなる)をやってみました。
完全に連続する光沢は出ないんですが、それでも、効率的には10%くらい上がったんではないかと。
会社の命令されたわけではないですが、そんなことを考えてやっていました。
それからもっと量産ができないかということで、今はもう一般化してますが、光沢ニッケルメッキ、ロジウムメッキの併用もやりましたね。

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